せいあん!特別編_2018年夏 蘭州・カシュガル・トルファン・敦煌旅行記_7月7日(土)_ 敦煌3日目_敦煌博物館1日目(新石器時代~唐代)・鳴沙山2日目(9/30:鳴沙山入園料変更追記)(2019/2/7追記)
2018年7月7日(土曜日)、敦煌はこの日も良い天気でした!\(^o^)/
前日、ホテルに戻った後、今後の日程変更のためにスマホで「緑洲島酒店」の宿泊追加予約、飛行機チケット購入、列車切符キャンセル、他都市のホテルキャンセル等をやっていたら・・・・・・、寝るのがかなり遅くなりました。
当初計画での最終訪問地だった武威では、ホテルのキャンセルが不可。
想い出の地を回る旅だから、予定変更なんてしないと思い、「キャンセル不可」と知っていて予約したのですが・・・・・・。
悲しいですが、20年近く前と同じことをするのはムリがありました。
体力気力が付いてきません。(T_T)
ただ、それだけでなく、敦煌が思いの外居心地がよく、3泊4日で去るのが残念に思えてきたことも理由の一つ。
そんなわけで、日程変更の結果、敦煌に計5泊することになりました。(*^-^*)
寝るのが遅かったので、起きるのも遅くなったのは致し方ありません。
なんて、この旅行、移動がない限り、いつもこんな感じです。(笑)
写真の撮影時間を確認すると、13時過ぎにやっと「敦煌夜市」に移動。
前日の不規則な食事が祟ったようで、この日は旅行中、いえ、ここ数年で一番げっそりやつれていました。
「痩せた」なら嬉しいのですが、見た感じ、細胞の水分が激減して皮膚の弾力が消えうせたよう。(^^;
このままだと、いずれ、干尸(ガンシ―・ミイラ)?
まともに食事をして栄養補給せねば!
と思い、「敦煌夜市」内を物色し、このお店に入ることにしました。☟
注文したのは「鸡肉焖饼子(ジーロウメンビンズ)(鶏肉燜餅子)」という料理。☟
一杯15元です。(1元=16円で換算すると、240円)
どんぶりの中に入っている主食の「餅(ビン)」は、小麦粉を捏ねてかなり広い幅でカットしたもの。
鶏肉・玉ねぎ・葱と獅子唐(?)が入っていたような記憶が。
醤油ベースの味付けでとても美味しかったのですが、ボリュームがすごくて私は食べきれませんでした。(^^;
隣の席には嘉峪関から観光に来ていた女性が二人、食事を終えて休憩中でした。
このお二人は、年配のお母さんとその娘さん。
お二人は早朝、日の出を見るために鳴沙山へ行って来たと言われていました。
このお店の食事の量、このお二人にはちょうどいいそうです。
「嘉峪関もいいところだから、観光に来てね」と言われ、キャンセルしたのがちょっと心苦しくなりました。
「焖饼子(燜餅子)」、私が食べたのは鶏肉でしたが、一番有名なのはメニューの一番上に書いてある「胡杨焖饼(フーヤンメンビン)(胡楊燜餅)」。(*^^*)
こちらは羊肉が使われているので、ちょっと高くて一杯38元です。(1元=16円で換算すると、約600円)
エネルギー補給したところで、行動開始!
この日の午後は、またしてもバス停「中医院」から路線バス③に乗って、 「敦煌博物館」へ 出かけました。\(^o^)/ ☟
☟の地図を見ていただくと分かり易いのですが、「敦煌夜市」にいた私は、③バスに乗るならバス停「沙州市場」から乗車すれば近かったんです。
実は、現地にいた頃、地図の方角を勘違いしていて、頻繁に迷走しました。(笑)
自分がバスで敦煌に到着した場所、東大橋の位置を、地図の上側(北)と思い込んでいたようです。
地図を見る必要がなくなり、現地の建物や飛天像で方角を把握できるようになってからは平気だったんですけど・・・・・・。(^^;
この時も、バス停「中医院」を西域路の紫色で塗った歩行者天国より東(右)と思い、わざわざ西域路までやって来て、バス停が見つからず行ったり来たり。
通りすがりの方に「③の路線バスならあの角を曲がればすぐだよ」と教えていただいたのが、「7天」のある角を曲がって道を渡ったところにある「中医院」だったわけです。(笑)
「中医院」から「博物館」までは1元(1元=16円で換算)でした。
こちらが「敦煌博物館」です。☟
私は「敦煌博物館」WeChat公式アカウントで展示品の写真や説明見ていますが、インターネット上の公式サイトもありますのでURLを貼付しておきます。☟
☝の矢印の場所をクリックすると、展示品の写真を見ることができます。(*^-^*)
上の建物の左端に、チケットセンターと入り口があります。☟
建物に向かって左手にチケットセンター、右手に博物館の入り口というように向かい合っています。
ここでも、チケットはパスポートを提示して入手します。
私はチケットセンター内にあったロッカーにリュックを預けました。
トルファン博物館のように強制ではありません。(*^-^*)
ここで、入館時間の情報を!
5月1日~9月30日:午前9時~午後18時半(入館は17時半まで)
10月1日~翌年4月30日:午前9時~午後18時(入館は17時まで)
毎週月曜日は休館。(国家法定祝祭日に当たる場合は開館)
新疆時間ではなく北京時間で動いているのに、冬場でも18時まで見学できるなんて、ありがたいことです!!
入り口を入ると、ここにも荷物を預けるロッカーがあり、その先でセキュリティ検査を受けます。☟
検査を受け、突き当りの壁を左へ曲がると、☝の一番下の写真の通路に出ます。
この奥の扉を入ると、☟のようなホールがあります。
上段の右手からホールに入り、緑の矢印の順に進んで行きます。
右手の壁には、黒い石板に刻まれた中国語・英語・日本語・韓国語の「序言」。
日本語の序文をアップにします。☟
この序文の中で、「華戎交差の大都会」と言う表現があります。
これがホールの正面にあるレリーフの、右中央に見える中国語「华戎交会的都市」の訳です。
上のホールの写真の下段は、ホール左手の壁のレリーフ。
ここを矢印に沿って曲がると、☟のスロープが待っています。
突き当りの胸像は、後漢の軍人「班超」。
この名前に見覚えがあると思ったら、カシュガルで見学に行かなかった「盤橐城(班超紀念公園)」の主役ではありませんか!!
カシュガルで、訪れておけばよかったのかな・・・・・・?
上の突き当りを曲がると、更にゆるい傾斜のスロープが続きます。
この途中左手に、最初の展示室があります。☟
展示室に入る前に、通路に展示されているものを見てみましょう!(*^-^*)☟
序文が四ヶ国語あっただけあり、展示物の説明のほとんどに日本語訳があります!!
ありがたい~~~!!!(*^▽^*)
では、展示室に入ります!\(^o^)/
最初の展示物のコーナー です。☟
左側のパネル「敦煌郡の設立」を拡大します。☟
☟「張騫の西域行路地図」
展示品のアップ。☟
☝左:黄釉陶奩 / 右:緑釉四神陶奩
百度百科で調べると、「奩」は「中国古代、女性が化粧用具を収めた鏡箱」と紹介されています。
☟の「銅犂」は、「沙州故城」から出土したもの。
7月9日、「敦煌古城」の帰りに「沙州故城」の側でバスを降りて見学しました。
あそこから出土していたのか~と、2ヶ月以上経過して発見。(^^;
次のコーナーです。☟
この☟展示物を見た時、小さなヘビが後ろを振り返っている像かと勘違い。(笑)
正しくは、「銅製の帯鉤(おびどめ)」でした。(^^;
でも、勝手に命名「見返りへび」。(笑)
☝☟、「陶かまど」の作りが可愛らしいので、アップで掲載。(*^^*)
ままごとのセットみたい。(*^^*)
この展示室の中央には、遺跡の復元模型や発掘された「積薪(積み上げた薪)」が展示されています。☟
上の写真、手前左の模型を拡大した写真です。☟(馬圏湾遺跡の復元模型)
次☟は、入口の正面、三番目のコーナー!
ここでは、「漢代長城の修築」を紹介しています。☟
日本語部分、何とか読めるでしょうか?
☟は、コーナー真ん中にあるパネル「漢長城の種類」。(^_^)/
このコーナーの展示品です。☟
左上の写真で気になったのが、円形の「黄羊夾」。
何だろうとネットで検索してみると、黄羊を捕まえるための罠に使われたもののようです。
細く削った木を麻糸でぐるぐる巻きにした、約10㎝くらいの器物。
草地に穴を掘り、そこにこの罠を置き、草でそれを隠しておく。
黄羊がやって来てそれを踏むと、蹄が中央の穴に引っかかってしまい、素早く動けなくなり、簡単に捕まえられる。
私、大きさを考慮せず、雪の上を歩く「かんじき」に似た物で、砂の上を歩き易くするためのものかと思っていました。(笑)
右上の「わらじ」のように見えるもの、これらは左から、「麻靴底」・「靴底」・「麻織靴下」と表示されています。
1979年、馬圏湾遺跡から出土。
左下は「竹簡」とのみ記載。
右下:漆勺 漢代 1998年玉門漢出土
このコーナー右端のパネル「修築構造と方式」です。☟(*^-^*)
次のコーナーへ移動します!\(^o^)/
☝の写真の下側に、チラリと写っているのは出土した「積薪(積み上げた薪)」。
薪が混ざった土の塊にしか見えませんが、歴史的価値のあるものなのです。(笑)☟
「敦煌博物館」WeChat公式アカウントの紹介:
国境警備の兵卒にとって、薪の伐採は日常業務の一つで、平時に、いつでも使用できるよう蓄えておいた。
敦煌領内の積薪は、主に葦・紅柳(hóngliǔ)(タマリクス・ラモシッシマ Tamarix ramosissima ギョリュウ属の植物)の枝・胡楊の枝を括りつけたものを積み上げて作る。
敦煌領内の長城沿線には、まだ67もの積薪が残っている。これらは長年露天に曝され、二千年余りの時を風雨や日差しに曝されてきたため、現在は化石化している。
コーナーの紹介に入ります!(*^-^*)
「長城の駐屯」☟
☟は「むしろ」、1979年、馬圏湾遺跡から出土です。
一枚の完璧な状態のむしろではありません。
でも、これを見た時の感想――「漢代~~~???」
とてもそんな昔のものとは思えない、しっかりした編み目の状態に驚愕。
複製品ではないのかと、わざわざ館員さんに確認しました。(笑)
それくらい、しっかりした編み目です。
湿度が低い敦煌だからこその、この保存状態!
日本だと、きちんと倉庫に保管されていたとして、数十年も放置したら湿気で黴てしまい、腐っていそうです。(笑)
莫高窟の壁画の中の「長城出入関図」。☟
本物は写真撮影禁止なので、パネルやレプリカがあれば、できるだけ載せたいと思います。(*^-^*)
櫛や鍋ブラシ(古代の「亀の子たわし」?)も並んでいます。☟
☝の並びの中で、気になった二つをアップ!(*^-^*)☟
☝左の「木版画」は図柄が可愛らしいくて、目に留まりました。(*^^*)
右の「透かし彫りの銅製品」は、透かし模様が細かいですね。
☟は、「敦煌博物館」WeChat公式アカウントの紹介によれば、漢代の「太初歴」が記された木簡だそうです。
中国でこれまでに発見されたものの中で、最も古く、最も完璧な状態のもの。
紀元前104年、天門学者落下閎・鄧平等により制定。
「太初歴」では一年を365.2502日、一か月を29.53086日と定めていた。
コーナーの右半分は「烽火制度について」。☟
烽火信号と制度についてまとめた表、中国語のままですが貼っておきます。☟
☟の束ねた藁のようなものは「苣 jù (ジュー↘)」。
「漢代烽火制度」の日本語訳や表に「苣火」と言う烽火の種類があります。
「苣」は、この烽火に使用するものです。
日本語だと、なんと発音するのでしょう?
「苣」の字は「きょ」と発音するようですが、あってるでしょうか?
「敦煌博物館」WeChat公式アカウントでの紹介によれば、1979年に馬圏湾烽燧遺跡から出土とあります。
出土した「苣」には「大苣」・「中苣」・「小苣」「引火苣」あり、それぞれの長さは、243㎝・63㎝・47㎝・22㎝。
「回転式弩弓」 (複製品)と国境の砦における「回転式弩弓」設置使用概要図。☟
次のコーナー「屯田」と「漢長城の管理」です!(*^▽^*)
「屯田」について。☟
歴史の授業で習ったな~。
出土した穀物です。☟(*^▽^*)
左から、キビ(1979年 馬圏湾)/アワ(1963年 当谷燧)/大麦(?年 漢長城)
見た目、これらの種子は皺もなく、色も鮮やかだが、内側の澱粉と胚芽は炭化し、食べることはできず、発芽はしない。
出土品と漢簡の記載から、漢代、敦煌は重要な穀物の産地、しかも多種の穀物を産出する産地であったことが分かる。(「敦煌博物館」WeChat公式アカウントより)
これらの種子が発芽して、収穫ができていたなら・・・・・・。
古代キビ・古代アワ・古代大麦とか名付けられ、敦煌名物になって街おこしに一役買っていたんでしょうか?
それ以上に、生命力が相当強そうなので、悪条件に耐えうる強い品種が改良できて、生産性が一気に向上?
勝手に想像~~~してみました。(笑)
「漢長城の管理」
「敦煌 漢代長城の軍事システム」
「漢長城の管理」の説明で触れられていた「倉城」の写真です。☟
「長城の防御器具」
☟は、弩機のパーツ(上段)と鉄剣(下段)。
共に1964年甜水井で採集。
次のコーナーは、「漢代 敦煌の郵便駅」についての紹介です。☟
写りが非常に悪く、申し訳ございません。<(_ _)>
こちら☟は、『敦煌懸泉置漢簡』(とんこう けんせんち かんかん)の複製品です。
懸泉置遺跡にて発見。
「漢代の簡牘(一式)」
『敦煌懸泉置漢簡』が発見された懸泉置遺跡の写真。☟
「懸泉置遺跡の復元模型」☟
☝、世界文化遺産、 全国重点文物保護単位です。
敦煌市の東64キロ、祁連山脈の支脈三危山前の扇状地にあります。
「三危山」!
敦煌空港や敦煌駅と市内を結ぶバスの始発・終点がある通りが、なぜ「三危」という交通事故が多そうな名称なのか、気になっていました。
たぶん、この山の名前から付けたんでしょうね。(*^^*)
ここから、後漢のコーナーに入ります。\(^o^)/
☟2枚は、後漢のコーナー全体図。
前漢のコーナーにも人物像の「絵」はあったのですが、後漢までやって来て思ったこと。
「人物像」が妙にイラストっぽい!
学研の「歴史群像」シリーズを思い出しました。(笑)
布類の出土品です。☟
左 :シルク断片 1998年玉門漢遺跡出土
中央:麻布 1979年馬圏湾出土
右 :毛皮靴下 1998年玉門漢遺跡出土
後漢の紹介文にも登場、廊下には胸像があった「班超」が、使節として西域へ派遣されたルートを示す図です。☟
たくさんの装飾品。☟(^o^)☟
装飾品の中で一番目を引いた一ネックレス。☟
あまり長くないので、手首に二重巻きにするブレスレットなのかな?と思ったら、ネックレスでした。(*^^*)
ところで、この装飾品のなかで注目すべきはこのネックレスではなく、上の全体写真の上段左から二つ目の「玻璃耳珰(ガラスの耳飾り)」だったようです。☟
☟は「敦煌博物館」WeChat公式アカウントの説明の一部です。
1982年、敦煌南湖郷の盗掘に遭った漢代の墓から、数点のガラス製耳飾りが出土した。
墓の主の身分は明らかではなく、棺の蓋は朽ちていた。
出土時、耳飾りは石珠・真珠・琥珀等の装飾品と共に首飾りの形で死体の胸元に置かれていた。それらをつなぐ糸は既に存在していなかった。風化してしまったのか、それとも元からなかったのか、今となっては考証することはできない。
専門家の鑑定により、出土した耳飾りの材質はガラスとされ、「中国ガラス外来説」 の影響により、真珠・琥珀同様、シルクロードの交易品と認定された。
しかし、70年代、中国中原地区の2回に亘る発掘により出土したガラス器物が、「中国ガラス外来説」の観点を否定した。
これらのガラスは中国内外の専門家により現代のスペクトロメーターを用いて鑑定され、その結果はともに「鉛バリウムガラス」であり、西方の「ソーダ石灰ガラス」とは全く異なる二つのガラス体系に属することが分かった。
このことは中国が世界で最も早期にガラスを発明・製造・応用した国の一つであることを実証した。敦煌漢墓から出土した耳飾りは、シルクロードの交易品ではなく、中国で作られたガラス器物なのである。
※展示物の側にあるプレートには「琥珀耳飾り」とありますが、「ガラス」が正しいと思います。
☟の展示物の中で、注目すべきは銅牛車(上段)と銅釜甑(下段の左)だそうです。
銅牛車☟
銅釜甑☟
これで第一展示室の見学終了です!(*^-^*)
ここからは第二展示室に移動します。\(^o^)/
ちょっとぼやけていますが、展示室内の様子です。☟
上の写真の左、壁に掛かっている白いパネルの向かいにあるのが、☟のコーナーです。
まずは、左端のパネルから!☟(*^▽^*)
このコーナーで「敦煌博物館」WeChat公式アカウントで取り上げ、説明があるのは以下の3点。
1.玉石枕
魏晋時代の「通信校尉」の墓から出土。
表面の特徴からホータンの青玉の粗玉とみなされている。
ホータンの玉を枕に用いることは、玉が備えている熱を下げ、温度を下げるという特徴を利用し生活用具を制作したということである。
西北部は夏は乾燥し気温が高いため、玉で作られた枕を用いることは、脳をスッキリさせ、血圧を下げる効果がある。
この種のホータン玉で作られた枕は非常に高く、一般的に上層の貴族が所有するものであり、出土数は少ないため、非常に珍しものである。
この墓の主がこの種の玉石枕を使用していたことは、この人物の身分地位にふさわしいと言える。
「敦煌博物館」WeChat公式アカウントより一部翻訳
2.銅亀
この銅亀も玉石枕同様、魏晋時代の「通信校尉」の墓から出土。
この墓は盗掘にあっている。
この墓には合計4体の銅亀があったが、盗掘時、4体の銅亀はそれぞれ棺桶の下部の四隅に棺桶の台座として使われていた。
4体の銅亀はほぼ同じ大きさで、保存状態は非常に良かった。
青銅で作られている。
この4体の内、2体は盗掘者により破損した。残りの2体は甘粛博物館と敦煌博物館で収蔵されている。
古代、亀は龍・鳳凰・麒麟と共に「四霊」と称され、古代の人々から長寿の生き物とみなされていた。
亀を墓の中に置くことは、墓の主が長寿であったことの隠喩の可能性がある。
また一方で、墓を守るという役割も備えており、墓の主の身分地位の象徴であり、墓の主及び家族が、亀は人を災いから遠ざける縁起物であるとし、家運隆盛という願いを祈念した。
亀の加工技術から分析した結果、この亀は敦煌で作製されたものではなく、他所から運ばれてきたものである。
「敦煌博物館」WeChat公式アカウントより一部翻訳
3.銅鳩
上2点の展示物同様、魏晋時代の「通信校尉」の墓から出土。
「銅鳩」なのですが、鳩の形状をした杖のグリップの部分です。
1981年、甘粛省武威から出土した「王杖詔書令簡」から、鳩杖を与えることは、前漢・後漢を通じての敬老制度であり、鳩杖を持つ老人は特別待遇を受けることができた。
役所に出入りする際、ひざまずく必要はなく、養ってくれる子女がいない場合、役所が買い付ける小さな商いをすることができ、しかも租税を払う必要がなかった。
鳩杖をついている老人をいじめる者には、大逆無道の罪として処罰が下された。
皇帝が鳩杖を与える際、老人の身分地位の違いにより、与える鳩杖の材質にも竹木・青銅・銀・金等の差があった。
この鳩杖のグリップは青銅製なので、この墓に葬られた主(男性)は、長寿であったと推測されるだけでなく、身分も非凡であったことが分かる。
「敦煌博物館」WeChat公式アカウントより一部翻訳
次に参ります!\(^o^)/
西域から買い入れているものの中に、「汗血馬」の文字が見えますよ!
その他の展示物をアップ!
前漢時代のものはアップの写真がありませんが、前漢時代にも弩機のパーツが出土しています。
それと比べると、☝の弩機パーツの加工技術、進歩しているな~と感動。
研削機械がない時代、どうやってあんなにきっちりした溝や穴を切り出すことができたんでしょう?
それとも鋳型に青銅を流し込んで製造?
これからも博物館巡りをすると思うので、どこかの博物館の説明で謎が解けることを祈っています!
今すぐ自分で調べないのが、情けない~~~。(笑)
「ソグド貴婦人図」☟
次のコーナーへ移ります。(*^^*)
このコーナーは、これしか写真がありませんでした。<(_ _)>
次は、上の写真の右隣りです。
甘粛省博物館にも同じような展示品があった、絵の描かれたレンガ。☟
☝のレンガは、展示品の一番下に「複製品」と説明プレートがありました。
この右側にも、四神や人物・動物・が描かれた同様のレンガが展示されていて、それらも複製品なのかどうか、私にはよく分かりません。
写りがあまりよくありませんが、いくつか貼っておきたいと思います。
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2019年2月7日、追記。
2018年12月中旬に敦煌博物館を再訪しました。
その時、解説員さんに確認したので、ご報告を!(*^▽^*)
まずは写真を追加します。☟
☝の写真で、左側のレンガは全てレプリカ、右側はオリジナルとのことです。
☟、左側のレプリカ。図案は生活に関するものを主としています。
☟、右側のオリジナル。神話が図案のメイン。91DXF・M1号墓からの出土品。
各レンガの説明プレートの掲載は省略させていただきます。
枚数が多すぎて・・・・・・。(^^;
出土した91DXF・M1号墓のレプリカが、☟にあります。
見づらかった説明プレートも、ここに再掲しておきます。☟
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☟は、「91DXF・M1号墓レプリカ」です。
この説明プレート、写りが悪すぎて、自分でも表題以外よく読めません。(^^;
レプリカは、第二展示室の中央にある柱の一角を利用して展示されていました。
☟2枚が、レプリカの写真です。(*^-^*)
☟は「M133照壁木斗拱とレンガ分布概略図」。
展示室中央の柱に掲示してあった概略図の一部です。
レプリカはM1、概略図はM133です。(念のため)
2019/2/7追記:同じお墓の異なる坑道の照壁だそうです。
次は「南北朝」のコーナーです。\(^o^)/
コーナー全体の様子。☟
このような文物が展示されています。☟
上の下段の一部をアップします。☟
日本語訳は「鎮魂の缶1組」。
でも、中国語と英語訳から判断すると「鎮墓の壺(墓を守護する壺)一式」くらいの意味ではないかと思います。
出入口の近くにあったため、外の強い日差しが廊下の窓から差し込んできて、写真が写しにくいことこの上ない!(^^;
ガラスが反射しまくっていますが、アップをご覧ください。☟
北涼石塔:1966年沙山塔から出土。☟
左:北涼石塔(欠損あり)1981年三危山王母宮から出土
右:北魏石塔 1972年県城広場出土
石塔の間に「莫高窟の造営」を説明するパネルがありました。☟(^o^)☟
日本語部分、単独で写したものをはめ込みましたが、やっぱり見にくいみたい。(^^;
☟に再掲します。
第二展示室、最後のコーナー、莫高窟のパネルの向かいにある「西涼国の新興と衰退」です。\(^o^)/
敦煌が西北部政権の中心になった唯一の時期・・・・・・。
たった5年だったんですね。
でも、中心ではなくても、敦煌は今でも輝いてます!!
コーナー全体の様子。☟
上の中から、二点だけご紹介。☟
以上で第二展示室の大まかなご紹介が終わりました!(^^)/
引き続き、第三展示室「隋唐時代 敦煌の繁栄」へ参りましょう!!!(*^-^*)
窓から差し込む日差しが反射して、正面からまっすぐ写すと読めない場所がありました。
それで斜めから写してみたのですが・・・・・・。
いかがでしょう?(^^;
ついに、ついに、一番好きな時代になりました~~~!\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/
展示室、入ってすぐの壁にあるコーナーです。☟
上の写真の中央にある説明パネルをご覧ください。(*^-^*) ☟
※文中の「1亩(mǔ ムー)」は1/15ヘクタール(666.667㎡)に相当します。
☟3枚は、コーナー左端の人物像のパネルです。
☝「莫高窟第103窟帝王図」
☝の上:「都督夫人礼佛図」
☝の下:「牢獄図(莫高窟45窟南壁)
☟、隋代の「魌頭」です。
1982年、敦煌市新店台墓群より出土。
「敦煌博物館」WeChat公式アカウントによると、敦煌地区での「魌頭」の出土はこの一件のみ。
出土時には合計7点ありあましたが、破損の激しいものが1点あり、6点み展示されています。
古代の人々がこうした葬具を遺体の側、或いはその上に置いた目的は、死後の霊魂をととどめ、また邪悪なものと疫病を追い払うためだそうです。
こちら☟は、女性像ではなく、彼女の手元の碁石にご注目!(*^-^*)
☝の唐代の碁石は、1982年、敦煌市の南西75キロの場所にある寿昌城遺跡から出土した。
漢代、寿昌県は龍勒県と呼ばれていたが、北魏正光六年(525年)に寿昌県と改められた。
≪通典≫巻6≪食貨志・賦税≫の記載によると、『大唐武徳六年(618年)、唐高祖は「敦煌郡は碁石20セットを献上せよ」との詔を出した』とある。このことは、唐以前から敦煌寿昌県は碁石の製造により有名であったことを説明している。
≪唐新書≫巻4≪地理四・沙洲≫には、「献上された特産品:碁石・緑礬・石膏」と記載されている。
現在、敦煌博物館で保管されている≪唐地志≫は天宝初年(742年)の写本である。写本には「・・・・・・都四千六百九十,贡棋子(碁石を献上)」と記載されており、唐武徳元年から天宝初年の100年余りの間、敦煌郡は毎年朝廷に碁石を献上していたことが分かる。
これら碁石の材質は花崗岩だが、その内のいくつかは天山支脈の白・黒玉で作られている。
碁石の外観は美しく、研磨が細かく現在流行の碁石とほぼ同じである。
「敦煌博物館」WeChat公式アカウントより
碁石をただ並べて展示するのではなく、囲碁を差しているように碁盤の上に配置しているのが面白いな~と思いました。(*^▽^*)
次のコーナーへ参ります!(^^)/
☟、上の写真で前述のコーナーの奥側、及び正面のコーナーを見ていきます。
左側には壺類が並んでいます。☟
☟右端の壺をアップにしますネ。(*^-^*)
壺の上に掲示されているパネルがこちら!☟
☟敦煌壁画「婦女揚場図」
☝敦煌壁画「雨中耕作図」
右側のコーナーです。☟ (*^-^*)
☟は、地図パネルの左側「唐代前期の沙州西部の概略図」。
☝の図、真ん中より少し上の辺りに「罗布泊(羅布泊)」という文字があります。
これ、「ロプノール」です。(^^)/
☟地図パネルの右側「唐代初期の瓜州・沙州概略図」。
☟、陶馬俑頭:1987年鉄家堡唐墓葬から出土 唐代
☝、「陶馬俑頭」の鼻の辺り、細い線で描かれた模様が残っています。
この馬の口角が少し上がっていて、微笑んでいるように見えませんか?(#^.^#)
☟、左3人は駱駝を引く人物の俑。1987年、鉄家堡唐墓葬から出土。(唐代)
上の左側は駱駝の俑。唐代のものとしか情報は書かれていません。
☟、鎮墓獣:敦煌市蘇家堡墓葬から出土 唐代
「敦煌博物館」WeChat公式アカウントの☝の鎮墓獣に関する部分の説明は以下の通りです。☟
材質は陶器、副葬品の葬具。
鎮墓獣は中国古代の墓葬でよく見られる一種の怪獣。人々は鎮墓獣を凶悪で恐ろしいイメージに作り上げ、鬼魅に畏怖させ、死後の霊魂を守護するために墓葬内に配置した。
考古学の発掘から、最も時代が早い鎮墓獣は戦国時代の楚の墓から出土したもので、その後、魏晋から隋唐にかけて流行し、五代以降次第に姿を消していった。
鎮墓獣の製作について、早期の材質は木・骨が主体であり、陶製のものは非常にまれだった。その後、陶製のものと唐三彩が主要な材質となった。金属及び石製のものは少ない。この鎮墓獣の材質は細泥紅陶(さいでいこうとう)。
人面獣身であり、顔部分は高い鼻・彫りの深い目元・頬髭という典型的な胡人のイメージで造型されている。
次☟は、隣の壁の内側に作られている「敦煌莫高窟45窟レプリカ」の中へ!(^_^)/
☝の写真の右側に入り口が見えています。
入りました。☟
実際の莫高窟の照明、これほど明るくはありませんでしたが、こんな感じに全体を照らしてありました。
正面に寄ってい行きます!
天井を見上げて~。☟
奥に向かって右側の壁。☟
奥に向かって左側。☟
出入口側の壁。☟
オレンジ色のライトに照らされて、レプリカ内は金色に輝いていました。(*^-^*)
この後は、出口の向こうに見えているコーナーへ移動します。☟
館員さんお二人の姿が見えなくなりました。
誰かの置忘れの水筒がポツン・・・・・・。
寂しそうに取り残されています。
こちら☟は、上の写真の両サイドに建っている唐代の「天王俑」。\(^o^)/
この二体は博物館が収集したもので、出土時期・場所の情報はありません。
では、コーナー右端のパネルから見ていきましょう!(*^-^*) ☟
コーナー右側に陳列されている「天馬磚」・「伏龍磚」・「玄武磚」からご紹介します。\(^o^)/
☟最初は「天馬磚」。
「天馬磚」には「敦煌博物館」WeChat公式アカウントに説明があります。
その一部をご紹介します。(*^-^*)
三危山老君堂遺跡から出土、装飾用磚として壁の基礎に嵌め込まれていた。
この「天馬」は、「漢代、敦煌の渥洼池(現在の南湖郷黄水)に天馬が出現した」という史書の記載を裏付けるものと言える。
≪漢書武帝紀≫の記載によれば、漢武帝の時代、暴利長と言う名の囚人が敦煌で屯田に従事していた時、野生馬を一頭捕らえ、漢武帝に献上した。その馬の立派な体型・非凡な骨格を目にした漢武帝は、漢武帝が最も崇敬する太乙神が与えてくれた宝馬であると思い、「太乙天馬」と名付け、また「太乙之歌」も作成した。
これより「天馬」は一躍有名になり、敦煌もまた「天馬」の故郷と呼ばれるようになった。
渥洼池ってなんだろう?と百度百科で検索。
すると、『≪漢書武帝紀≫の記載によれば』以降の内容が、「敦煌博物館」WeChat公式アカウントのものと全く同じでした。
参考にURLを貼っておきます。(渥洼池の写真があります。)(*^-^*)
「伏龍磚」
「伏龍磚」も「敦煌博物館」WeChat公式アカウントに説明があります。
その一部をご紹介します。
唐代の葬墓(空港墓群)から出土、墓葬床用の装飾磚。
この伏龍には龍・麒麟・犬の特徴があり、そのため初期には麒麟と呼ばれたり、天狗と呼ばれたりすることもあった。
また、踞座していることから、後に「坐龍」とも呼ばれるようになった。
「伏龍」は家神で、唐・宋代に流行した。
毎年、定期的に家屋敷内のあちらこちらを歩き回り、ある場所に来ると「伏せる」のが特徴である。
「伏龍」がいる場所は、建築・埋葬のための工事を行うべきではない。
「伏龍」を墓の中に置くことから、その墓は墓主の家屋敷の形状に基づき装飾されていることが分かる。
墓内部のいたるところに「伏龍」を置く目的は、おそらく常に家屋敷や墓を守り、或いは不吉なものを遠ざけ、厄を払い、幸運を祈るという目的を達成するためである。
「玄武磚」
かわいそうな「玄武磚」。
残念ながら説明はありませんでした。
☟の写真の展示物は「花磚」です。
上段一番左のものは「唐代花磚」:1982年 敦煌市新店台墓群から出土
模様がとても綺麗ですよね。
この磚の上部に展示されているのは、「莫高窟大220窟 東方薬師経変楽舞場」(初唐)。☟
このコーナー、左1/3です。☟
☝上段の四枚を拡大します!\(^o^)/
これらは四枚一組で、お墓の壁を装飾していました。
☟2枚(上の写真の右2枚)
「双人双馬磚(右)☝/(左)☟」 1995年空港墓群から出土 (唐代)
商人二人が駿馬に乗った様子を描いた物。
☟2枚(上の写真の左2枚)
「牽駝花磚(右)☝/(左)☟」 1995年空港墓群から出土 (唐代)
胡人が駱駝を引く様子。
4枚一組で、壮観なシルクロードの隊商の様子を表現しています。
次のコーナーは、「中国・西方 交通の興隆」です。☟
☟パネルをご覧ください。(*^-^*)
「唐玄奘取経ルート図」☟
☟、莫高窟壁画のパネル:「莫高窟103窟 各国王子聴法図」(唐代)
前の方でご紹介した「鎮墓獣」ですが、「敦煌莫高窟45窟レプリカ」の隣に、更なる展示があります。☟
こちら☝は博物館が収集したものです。
「鎮墓獣」2体が展示されている壁にはガラス窓があり、そこから中の様子を見ることができます。☟
☝☟は、「唐代敦煌墓葬レプリカ」です。
☝レプリカの中を正面から覗いたところ。
そして、第三展示室最後のコーナー「唐代の言語・文学」です。☟
☝の説明パネルの写真、ピンボケが激しいので、中国語を参照しながら何とか解読し文字でご紹介します。
『敦煌文書には唐代の韻書・字書(漢字の形・音・義を解説した書籍)・句読点が大量に保存されていることから、近代における漢語・文字・発音と語彙・文法、特に語義の発展を研究する上で極めて需要な資料である』
上の写真のコーナー前を右に進み、☟の写真の右側を通過し、スロープを前進し、左折して、第四展示室へ向かいます。
この日、私は閉館時間を調べていませんでした。
しかし!
①中国全土で月曜日が休館日として統一されていること。
②ローカル時間が北京時間より2時間遅れのトルファンでさえ、17時半で閉館だったこと。
③毎週通っている大唐西市博物館も、夏季時間は17時半で閉館。
以上より、敦煌博物館も17時半で閉館なのだと思い、第四展示室の途中で見学を諦めて出口へ向かいました。
実際は、今回の記事の冒頭の辺り、博物館へ入る時の件でお伝えしたように、サービスの良い敦煌では、夏季の閉館は18時半でした。(^^;
第四展示室:吐蕃と五代及び宗・元・明代
第五展示室:清代の敦煌開
上記の二展示室については、次のブログでご紹介します。(*^-^*)
同じ博物館に繰り返し通うのが習慣化したみたい。
実際、敦煌博物館には3回足を運びました。(笑)
第五展示室を抜けると、一階へと降りて行く長い下りの通路があります。☟
内装工事中のところがあったのですが、それが「範燕燕」というアートシルクのショップでした。(右下)
このショップの本部、大唐西市博物館の3階にあるんです!
大唐西市博物館は芸術体験館のようなところなので、購入希望があれば販売するけれど、基本は見学させてもらう場所。
なので、遠慮なく中に入れます。(笑)
☟の写真はネット上で探した、大唐西市博物館3階の様子。
最高級のシルクを使用しているというだけあり、スカーフの手触りはとっても滑らか。
安物しか知らない私。(^^;
触ったことの無い気持ちよい手触りなら、高級品ということで。(笑)
布地のデザインには、莫高窟の壁画もあります。
オバマ前大統領婦人からも称賛された他、国内外の著名人からも認められている芸術品だそうです。
思わぬところで大好きなブランドの進出を目にして、ワクワク。
後日、大唐西市博物館で、この敦煌のショップオープンのために商品を発送している様子を偶然見かけ、またワクワク。
遠いはずの敦煌が、すごく身近に感じられました。(*^-^*)
こうして、一階まで下りて土産物屋さんへ。☟
甘粛省博物館でもそうでしたが、最後に、博物館の発展にお力添えください(土産物屋でお金落して行ってね!)ということ?
ここを通らないと、出口に辿り着けません。(笑)
上の写真は、第五展示室を出てすぐの場所から撮影したものです。
上段の写真の土産物売り場に、日本語がお上手な女性店員さんがいらっしゃいました。
西安の大学で日本語を学ばれたそうです。
その方と暫く日本語でお話をしました。
カシュガルの人民広場で出会った日本人女性とお話して以来です。(*^-^*)
土産物売り場でお話していたので、18時頃、博物館を出ました。
ここから鳴沙山まで歩きます。\(^o^)/
バスで行ってもよかったのですが、それだと鳴沙山に着いてから日没までの時間が長すぎて、待ちきれないかも・・・・・・。
歩道の両側には街路樹が植えられていて日陰も多少あるし、日も傾き始めて、青空を眺めながらのんびり歩くのもいいかな~と。(*^-^*)
博物館を出て「鳴山路」を進み始めて間もなく、進行方向を右手にそれていく小道(合水路)にそって、水路がありました。(18時5分)☟
水路の遥か向こうに、ちらっと鳴沙山が見えています。(^^)/
「三危路」にある東大橋の下を流れる水路。
そこを流れる水も茶色く濁っていましたが、にも関わらず感動を覚えた私。
この水路にも、もれなく不思議な感動を覚え、暫し佇んでいました。
さて、再スタートです!
鳴沙山まで、こんな歩道が続いています。
少し進むと、右手に敦煌市図書館が見えて来ました。(18時10分)☟
続いて、18時33分、中学校前を通過。
小さな博物館のような建物に驚きです!
中学を過ぎるとすぐ、「文博路」との交差点を横断。☟
前方にハッキリ鳴沙山の姿が見えます。
後少し!\(^o^)/
交差点を渡ったら、道の名前が「敦月路」に変わりました。
歩道がすっかり日陰になって嬉しい!!(*^-^*)
青空を見上げながら、のんびり進みます。
18時47分、右手に公衆トイレを発見。☟
一時、テレビニュースで延々報道していた「トイレ革命(厕所革命)」推進の成果?
新しそうなので、ちょっと様子を見てみようと扉前まで行ってみました。
・・・・・・残念。
まだ、使用開始前。
シーズンも終わりかけた今なら、もう解放されているでしょうか?
ところで、敦煌では毎日、「敦煌盛典」・「又見敦煌」・「絲路花雨」というショーが上演されています。
「敦月路」に入ってすぐの辺りに「敦煌山庄」というホテルがあって、そこに上述の中の一つ、「敦煌盛典」を上演する舞台があります。
砂漠を背景に、野外スタンドが360度回転し、その都度舞台の場面が変わる仕掛けだそうです。
装置にはCGなども駆使されているとか。
ホテルの人にすごく勧められたのですが気が乗らず、「敦煌盛典」に限らず、私は3つとも見ずに敦煌を後にしました。
なので、上演場所はこの辺りですよ~というご案内だけに止めます。<(_ _)>
もうすぐ「ツーリストセンター」に到着です。
☝の写真の右手。
少し手前あたりからレストランが並んでいました。
歩道を歩く人(私を含め、車道を歩く人も)増えてきました。(笑)
19時6分、ツーリストセンターに到着!
博物館から、約1時間でした。
この日は前日より時間帯が早かったので、センター入り口にはたくさんの観光客がいます。
私は前日のチケットを顔認証登録しているので、センターには寄らず、直接入り口へ。
その時、初回入園の人たちについて、前日と同じゲートに行っていまい、中に入ることができず・・・・・・。
「前日に顔認証登録したんです!」と訴えると、顔認証対応のゲートは向かって左側へ行くよう指示されました。
そこで、サングラスはもちろん、眼鏡、スカーフも外して、やっと認証OK!!
前日、認証を失敗していたかと焦りました。(^^;
前日同様、オレンジ色の靴カバーを借りて準備万端!!!
中に入ると、眼前を駱駝の隊列がずら~~~~っと。☟
ずら~~~~っと、前日騎乗した場所から東峰のふもとまで、ほとんど途切れることなく続いていました。
この日もヘリやグライダーが飛んでいます!
この時、私がいたのは、☟のガイドマップの「Mingyue Square(鸣月广场)」。
駱駝の隊列は、破線のルートの下側を進んでいます。
「Mingyue Square(鸣月广场)」から、この日の目標地点を眺望。☟
素直に整備された道を進むのではなく、迂回して右手にあった湿地帯の右側、砂丘のすぐ際から「登山区」を目指します。☟
正面の砂丘、下から二本の列が上に向かって延びています。
あれは・・・・・・、砂丘の上から夕陽を見るため、懸命に登っている人たちの姿。
あの辺りが「登山区」です。
湿地の水面に鳴沙山が映りこんでいます。
舗装された道を無視してこのルートを選択したので、当然、足元には砂。
歩きにくいですが、足腰強化のための訓練と思って、歩きます!!(笑)
「月牙泉」手前の記念碑に到着。☟
「月牙泉」の記念碑の近くから、「登山区」を確認。☟
手前にある、右側のルートで登ることにしました。☟
登る前にちょっと休憩!\(^o^)/
1997年、初めて鳴沙山に来た時の写真をご覧ください。☟
ここは入口の「騎乗ポイント」でも、「東峰」のふもとでもなく、「登山区」のふもとです。
当時はここまで駱駝に乗ってやって来ました。
「東峰」への往復に比べると、乗っている距離が少し短くなりますね。
☟も1997年の写真です。
砂丘と月を映したかったのデス!(*^-^*)
では、今回も登りましょう!
青空を背景に、流れるような形状の雲がキレイ。
前方の動きが停止したので、この間を利用して振り返って撮影。☟
道路を挟んで左側の湿地帯の際を歩いてきました。
少し角度を変えて、「月牙泉」方向。
砂丘の表面、足跡の「ある場所」・「ない場所」がくっきり分かれています。
これは砂丘表面の美観を保つための措置です。
でも、まっさらな砂の上に自分の足跡をつけて、そこで撮影した動画をアップしようとする人は絶えません。
そういう人を見つけては、下からメガホンで怒鳴って止めさせていますが、係り員が登ってまで静止するには時間がかかります。
注意されても、1・2枚撮影するくらいの時間はあるようです。
それから急いで立ち退く・・・・・・、そんな様子を何回か目にしました。
「月牙泉」のアップ。☟
あの塔の下まで行けばよかったのですが、私は上から眺めただけで満足。(笑)
後は下りて、市内に戻るだけ。
「月牙泉」まで行かない代わりに、またまた昔の写真を貼らせていただきます。(*^-^*)
☝これは、1997年6月のもの。
左の砂丘の上に人がいます。
今は立ち入り禁止区域となっている辺りも、当時は開放されていたようです。
☟、2000年1月の写真です。
建物は写ってなく、正に「月牙泉」のみ。
見えにくいですが、寒さで凍り付いています。
上の写真に入っていなかったので、建物だけ下からアップ。☟
砂丘の上より、当然ながら下の方が早く日が隠れます。
出入口に向かっていると、まだ「月牙泉」の塔のてっぺんが少し見える辺りで日没状態に!
☝の場所で、これでもかと言うくらい何枚も撮影して、大満足。\(^o^)/
駱駝の騎乗ポイント近くまで戻って来ました。☟
☝☟、仕事を終えて、引き上げてくる駱駝たち。(*^-^*)
お疲れ様~~~!!!
駱駝引きのおじさんたちも、一日中キツイ日差しを浴びながら、歩きにくい砂の上を何往復もお疲れ様でした。m(__)m
この時間(20時37分)の、「東峰」方向。
まだこれから「東峰」に向かう隊列もあります。
前日は、私もまだ「東峰」のふもとにいました。(笑)
最後に、もう一度、引き上げて行く駱駝を見納め。☟
楽しかったな~~~。(*^-^*)
夕焼けは綺麗だけれど、沈んでいく太陽というのは何となく物悲しいモノ。
これで駱駝とお別れか~と思うと、夕暮れ時の雰囲気に感化され、ちょっとしんみりした気分になりました。
2018年9月30日です。
昨日、WeChatに登録している「鳴沙山月牙泉」公式アカウントで、「入園料調整の通知」が公表されました。
2018年10月1日より以下の通り変更になります。
オンシーズン:110元/一人/回
オフシーズン:55元/一人/回
学生・未成年等の割引はこれまで通りです。
顔認証での2回入園については言及されていません。
でも、値下げなので、サービスが低下することはないのでは???
記事アップ直後の調整なので、念のためお伝えします。(*^-^*)
前日の反省を踏まえ、この日は少し早めにバス停へ移動。
おかげで路線バス③に最終便に間に合いました。(^^)v
③バスで「沙州市場」で下車。
降りるとそこは「敦煌夜市」の入り口。☟
この門の内側には、お土産物屋さんがあります。
そこに並んでいる駱駝のぬいぐるみ。
先刻、駱駝との別れを惜しんだばかりなので、ものすご~~~く買いたい!!(笑)☟
でも、まだ数日滞在するし、慌てなくてもいいや。
写真だけ~~~~。(笑)
この時はそう思って買わなかったのですが・・・・・・。
最終日、他の店では日焼けして色あせていそうなので、結局ここにやって来ました。
すると、何匹もいる駱駝の中で、一番私の目を引き付けた個体がいた辺り、数個分がスカッと抜けているではありませんか!!
ちょうど、すれ違った人が黄色い駱駝のぬいぐるみを持っていました!!
僅差で、お気に入りを持って行かれた~~~!!!
教訓:欲しいと思ったものは、その場で買うべきです。
なんて、今写真で見ると、みんな同じようにかわいいではありませんか。(#^.^#)
土産物売り場を過ぎると、夜市です。☟
21時40分。まだまだ賑わってますね!
☟も夜市の敷地内。
この通りをまっすぐ進むと、初日・前日と夕食を買った饼(ビーン)類を売るお店があります。
更にその先が、歩行者天国。☟
民芸品のお店の軒先で、彫刻中。☟
許可をいただいて、接近して撮影しました。(*^-^*)
歩行者天国の南端、「西域路」の近くの飲食店も、まだまだ営業中。(22時40分)
この日もまた、フルーツの盛り合わせを購入。
美味しい果物を食べて、一日お疲れ様でした!(*^-^*)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
日付変わって、9月28日(金曜日)の深夜です。
ここまで読んでいただいて、ありがとうございます!(*^▽^*)
最近、西安は雨がちです。
気温もかなり下がってきて、昨日は日中20度以下の肌寒い一日でした。
晴れてくれると、25度くらいまで上がって気持ちの良いお天気なのですが、毎年、9月は雨が多いのでありました。(^^;
そう、私の頭の中は相変わらず7月初旬でも、周囲は秋なのです。(笑)
西北工業大学校内も、大唐西市城も、金木犀・銀木犀が咲き乱れています。
教室の場所が変わって、通学ルートが少しだけ変わりました。
すると、去年は気付かなかった場所にも、とても大きな木犀があるのを発見。
来年はもう見ることができないので、小さな花が落ちてしまうまで、校内をぐるぐる回って鑑賞したいと思います。
そして昨日夜、大唐西市城の広場で、大唐西市城オープン6周年のイベントがありました。
雨が止むのを待って、1時間半以上遅れてスタート。
古典楽器の演奏、子供たちの演技・拳法のデモンストレーション・伝統の楽器を弾きながら西安の方言で歌を歌ったり。
プログラムの合間に抽選もありましたよ。
抽選はQRコード(下の写真・右上)を使って実施。
私は初めの1時間くらいしかいなかったのですが、その時には、1000元相当(1元=16円換算で16,000円)のスキンケアセット8点の抽選がありました。
景品、かなり気合が入ってますネ。
以上、簡単ですが、「現在」の西安でした。(*^-^*)
おやすみなさ~~~い。