西安大唐西市博物館(その60:3階シルクロード硬貨展示ホール_モンゴル帝国の末裔_ティムール帝国、シャイバーニー・ハン国)+レギスタン広場、ウルグ・ベク天文台、グリ・アミール廟内部、シャフリサーブス、ブハラの写真
2019年2月22日(金曜日)に日付けが変わりました。
2月19日の元宵節も終わって、冬休みも残り後少し・・・・・・。
振り返れば、去年は春節が遅く、春節期間最終日の元宵節は3月2日。
既に、クラス分け試験も終わった後でしたっけ。
時間が経つのって、本当に速いですね。
新学期が始まったら、7月まであっという間です。
もうすぐ帰国~~~、寂しいな~~~。
なので、これが最後の機会。
19日の元宵節、無謀にもいったいどれだけの人出になるのか体験すべく、西安で一番人が集まる大雁塔方面へ出かけて来ました。
去年は世間一般の春節休みが終わった翌日に出かけたので、屋台にも近づけたし、ゆっくり写真もとれました。
今年はどうだ???(笑)
その実態は・・・・・・?
こんな☟感じ。(^^;
みんな、三蔵法師の追っかけ?(笑)
この元宵節の様子は、この次のブログでお知らせいたします!(*^_^*)
☝は予告編。(*^-^*)
それでは、本題に入ります!\(^o^)/
今回も引き続き、 3階レイアウト図で場所を確認!
今回も④の展示室の、☝図で言うと上部の壁。
③の展示室から向かうと、④の展示室に入ってすぐ右側になります。☟
右側の壁の写真がこちら☟。
今回ご紹介するのは、上の写真の右側1/3になります。☟
モンゴル帝国を継ぐ、「ティムール帝国」と「シャイバーニー・ハン国」です。(*^_^*)
中国語表記に合わせたので「シャイバーニー・ハン国」としています。
いつもお世話になっているWikipediaでは「シャイバーニー・ハン国」という呼称の記載はなく、「シャイバーニー朝」で登録されています。
見ていただくと分かるように、展示されている情報量・硬貨ともに少なめ。
どうしようかな~と思いながら写真を整理していたところ、2008年に旅行した中央アジアの都市名がいたる所に登場!
既にご紹介済みの場所もありますが、それ以外の写真を載せていくことに方針決定!
ご期待ください!(*^-^*)v
では、スタートです!\(^o^)/
【モンゴル帝国の末裔】
参考として訳しました。☟(*^^*)
モンゴル帝国はチンギス・ハーンの死後、彼の子孫に与えられていた分封地は次第にそれぞれ独立したハン国となったが、種族の多様性、信仰の影響、ハン位の争奪、外部からの侵入等により、ハン国は徐々に分裂・瓦解し、帝国の広大な草原における昔日の覇者としての雄姿は失われた。しかし、チンギス・ハーンの末裔として、彼らの体には「黄金の氏族」の高貴な血が流れており、後継者の中には依然としてかつてのモンゴル帝国を再興するという輝かしい夢のため、戦いを繰り返すものもいた。
その後継者の一人が建てた帝国が、こちら☟です。
【ティムール帝国/紀元1370年~1507年】
参考の訳です。☟(*^_^*)
帝国の創始者ティムール(在位期間:1370年~1405年)は、西チャガタイ・ハン国に生まれ、母親はチンギス・ハーンの子孫、ティムールの妻は西チャガタイ・ハン国のカザン・ハンの娘であることから、《明史》ではティムールを元皇女の夫(元駙馬)と称し※、その国をサマルカンド国(撤馬爾罕国)と記している。ティムールはチンギス・ハーンの末裔と自称していた。その軍隊は勇猛かつ巧みに戦い、帝国の全盛期にはその領土は現在のグルジアからインドにまで及び、その範囲には中・西アジアの各一部と、南アジアのごく一部という広大な地域を含んでいた。首都は初めウズベキスタンのサマルカンドに置かれ、当時、世界で最も優れた名匠がここに集まった。都市非常に美しく建設され、華麗で立派であった。工商業も十分繁栄していた。1405年、69歳となっていたティムールは80万の大軍を自ら率い、遠く明まで遠征に向かったが、その途上に病によって命を落とした。ティムールの息子は現在のアフガニスタン西部に位置するヘラートへ遷都した。1507年、テュルク系のウズベク族に滅ぼされた。
※部分、以下のWikipedia「ティムール朝」の項目では、(「・・・・・・、自身はチンギス・ハーンの子孫の娘を娶って、「ハン家の婿婿(アミール・キュレゲン)」という立場において・・・・・・)との記述があります。
【ティムール帝国領土】
☝、1405年、ティムールが死去するまでの遠征ルートと、1405年の領土図です。
☟、右下の凡例の参考訳です。(*^^*)
今回も、楽しく地名を検索!(^o^)v
でも、おそらく現在はインドの都市だと思うのですが、「巴特尼爾」は見つけられませんでした。(T_T)
では、展示されている硬貨をご覧ください!(*^^*)
【ティムール帝国 /銀/紀元1370年~紀元1405年←ティムール在位期間】
これ以降、全ての硬貨は 西安大唐西市博物館の所蔵品です。
たくさんずら~っと並んでいるので、だいたい3つに分けて拡大撮影してみました。
重複している部分があるので、一番上と下の列に番号を振っています。
右から①②・・・・・・⑭、⑮。
なぜ右から???
と気になった方がいらっしゃいましたら、すみません。
本人も、写真を加工し終えた後、数字の並びを見て・・・・・・、「左から振ればよかった」とちょっと後悔。(^^;
でも、やり直すのは・・・・・・面倒。(^^;(^^;(^^;
写真を写したのが右からだったので、登録ナンバー順に加工していたら、無意識に右側からカウントしていたという・・・・・・。
見辛かったらすみません。<(_ _)>
こちら☟は、博物館で購入した書籍に掲載されている写真です。
No.105:
「紀元1370年~1507年」は、Wikipediaで「ティムール朝」と紹介されている、シャイバーニー・ハンに滅ぼされるまでの期間です。
No.106:
ヒジュラ暦896年は紀元1490年~1491年に該当。ティムール朝サマルカンド政権の初代君主スルタン・アフマドの時代です。
No.107:
ヒジュラ暦833年は紀元1429年~1430年に該当。ティムール朝第三代君主、シャー・ルフの時代です。
ここから、ウズベキスタンの観光名所が登場!!\(^o^)/
一つ目のパネルは、「西安大唐西市博物館(その56:イスラム諸王朝_④ホラズム・シャー朝」でも登場した「レギスタン広場」です。
【サマルカンド レギスタン広場】
訳してみますネ!(*^-^*)
サマルカンド、古くはマラカンダと呼ばれ、2500年余りの歴史を有する、かつてはローマ・アテネ・バビロンと同じく高名な世界的な名城である。2001年、ユネスコにより世界文化遺産リストに登録された。サマルカンド市の中心に位置するレギスタン広場は3棟のマドラサにより構成されている。それぞれ15~17世紀の間に建造。この3棟の建築物は雄大で壮観で、内部には金碧に輝くモスクがあり、中央アジアにおける建築の代表作である。その内、ウルグ・ベク・マドラサは15世紀における最も素晴らしいイスラム神学校の一つである。
以前、☟の記事でサマルカンドにある一部の遺跡の写真をご紹介しました。
その時、レギスタン広場の3棟のマドラサについては、「シェルドル・マドラサ」の正面、ライオンが描かれたアーチの写真しか貼っていません。
今回は名前が特記されている「ウルグ・ベク・マドラサ」の写真をご紹介したいと思います。
「ウルグ・ベク・マドラサ」はレギスタン広場から見て左手のマドラサです。
ティムール朝第4代君主ウルグ・ベクによって建設され、1420年に完成しました。
☟は早朝、朝日を浴びている「ウルグ・ベク・マドラサ」。
旅行の時は人一倍早起きなので(笑)、ツアー参加者の皆さんが起きる前に、一人で出かけて撮影したものです。
ホテルからとても近かったのです。(*^-^*)
こちら☟は、午後、ツアー行程の一環で訪問した時のもの。
内側から撮影。
座っているのがウルグ・ベクだそうです。☟
☟、ミナレットの様子。
1日のスケジュールが終了した後、ライトアップされた姿を撮りたい!と思って出かけたら、2008年当時は真っ暗でした。(笑)☟
地元の人が数人立ち中。
うっすら明かりがあるのは、街灯によるものでした。
10年半経って、今はライトアップされているでしょうか???
ライトアップ姿、見たかったな~~~。(T_T)
レギスタン広場の最後として、広場正面に建つ「ティラカリ・マドラサ (1660年完成) 」の朝の風景を!☟
レギスタン広場全体を写すと必ず正面に写っているのですが、 単独の物はこれまで載せていなかったので、公平を期すために。(*^-^*)
また、Wikipediaによると、ウルグ・ベクは1420年代、サマルカンド郊外の小丘にウルグ・ベク天文台を建設しているそうです。
その天文台の写真がこちら!☟(*^^*)
確かに、背後に写っている街並みが少し低い位置に見えます。
天井部分が見える写真と、床のレール(?)を合わせてみました。☟
ピッタリ合わせるのは難しいデス・・・・・・。(^^;
側にあった記念館のような建物に展示してあったもの。☟
ここまで、サマルカンドつながりの写真のご紹介でした。(*^_^*)
以下☟、参考にさせていただいたサイトのURLです。ありがとうございます!
次へ移ります!\(^o^)/
【グリ・アミール廟】
参考として訳しますね。(*^-^*)
グリ・アミール廟(ペルシア語で「王の墓」を意味する)は、1403年に建て始められ、1405年にティムールが死去するとここに葬られ、ティムールが永眠する場所となった。陵墓はドーム構造の建物を中心として、マドラサ1棟と記念館群、4本のミナレットと中庭に入るために大きな入り口があり、表面全体にタイル装飾が施され、非常に芸術性が高い。
ティムール帝国は建築面でペルシャ・アラブとチュルクの建築様式を融合させ、チュルク系民族の特色を表現している。ティムール帝国で建設されたモスク、陵墓及び宮殿、マドラサ、天文台は美しく高々と聳え、装飾は華麗、細かくちりばめられた彫刻は見事であり、色調がはっきりしている。
この「グリ・アミール廟」も、前述の「西安大唐西市博物館(その56)」で外からの様子を昼間・夜とご紹介済み。
今回は内部の様子をご紹介します!\(^o^)/
と言いつつ、これは前回とは異なる角度からの外部の様子。☟
綺麗なドームのアップ!☟
壁に取り付けてあったプレート。☟
廟内の様子。☟
☟、壁に掲示されていた、お墓の配置図です。
お墓の主の名前が、3か国語で記載されています。
①の黒いお墓がティムールのもの。
色合いの関係で、オリジナルの写真でも2・6~9は数字が見えません。(T_T)
廟内の、金の装飾。☟
この後少しだけ、ティムールの生まれた場所「シャフリサーブス」の写真を!(*^_^*)
シャフリサーブスは、2000年、15世紀のティムール朝時代に建築された建物の現存する地区が、ユネスコの世界遺産に登録されています。
公園内、アク・サライ宮殿跡をバックに立つティムール像。☟
ティムール像の足下で、記念撮影をしていた新郎新婦とその親族・友人(?)の方々。☟
お幸せに~~~!!!
10年半前のことなので、今はお子さんも小学生くらいかな~?
☟アク・サライ宮殿
アク・サライ宮殿のアーチ跡に登って、頂上からシャフリサーブスの町を見渡した景色。
☟は、ティムール像が見える側。
この後見学したドルッテイロヴァット建築群・ドルッサオダット建築群などが見えます。
☟は、ティムール像とは反対方向の風景。
日本の地元では、周囲は山で視線が遮られます。
今いる西安では、高層ビルに前方を塞がれています。
こんな風に遠くまで見渡せるって、とっても気持ちいい~~~!!!
他にもたくさんあるのですが、このくらいにしておきます。(*^^*)
後はおまけで、ブハラからシャフリサーブスへの移動中の景色と、昼食の様子を!(^^)/
道中、綿花畑が広がっていました。☟
ちょうど収穫期。
シャフリサーブス到着前にいただいた昼食です!☟
Wikipedia様、いつもありがとうございます!(*^-^*)
次へ移ります!\(^o^)/
【 シャイバーニー・ハン国(シャイバーニー朝)/紀元1500年~1598年】
参考として訳します!(^^)/
チャガタイ・ハン国の末裔であるムハンマド・シャイバーニー(生没年:1451年~1510年)は、ウズベクと呼ばれる遊牧集団を率い中央アジアの草原で台頭し、1500年ブハラとサマルカンドを攻略、当初は首都をサマルカンドに置いたが、後にブハラへ遷され、ブハラ・ハン国と称するようになった。ブハラ・ハン国は最盛期にタシケント・バルフ・フェルガナ・ホラズム等の地を次々と占領し、1583年から全ウズベクのハンとなった。
ここでも、いくつかの地名が出てきました!
その中の一つ、見どころ満載のブハラの写真を、博物館で展示されている硬貨をご紹介の後、お目に掛けたいと思います!(*^-^*)
シャイバーニー朝の硬貨は枚数が少ないので、写真は銀と銅、各1枚のみです。
【シャイバーニー朝/銀/紀元1500年~紀元1598年】
【シャイバーニー朝/銅/紀元1500年~紀元1598年】
こちら☟は、博物館で購入した書籍に掲載されている写真です。
参考:ありがとうございました。(*^^*)
展示品の紹介が簡単になってしまいましたが、今回、2008年の写真に力が入っているのでお許しを!<(_ _)>
では、2008年のブハラへ、タイムスリップ!!!\(^o^)/
1557年、サマルカンドから遷都されたブハラには、たくさんの歴史的建築物が存在しました。
いつもの如く、早朝、一人で周囲を散策!(^^)/
アーチの外、左手に見えているのが宿泊したホテル。
旧市街の中心にある「アジアブハラホテル」です。
早朝、タキ・テルパクフルシャンの入り口路面を清掃するおじさん。
タキとは、道路の交差点をドーム型の屋根で覆ったバザールのことです。(*^-^*)
☟は早朝の様子。
早朝はがら~~~んとして何も出ていません。
☟は昼間の様子です。(*^^*)
昼間は商品が並んで、賑やか!(*^_^*)
タキ・テルパクフルシャンを抜け、カラーン・モスクとカラーン・ミナレットへ。☟
☝途中からミル・アラブ・マドラサ壁伝いに歩いて、ミル・アラブ・マドラサの壁が途切れると、斜め前にカラーン・モスクとカラーン・ミナレットが!(☝中央)
実はカラーン・モスクの壁やドームは早々と見えていたのですが、歩いていた時は、それがカラーン・モスクとは気付きませんでした。(笑)
ミル・アラブ・マドラサと、カラーン・モスクとカラーン・ミナレットは向かい合っています。
☟は、早朝(左)と昼間(右)のカラーン・ミナレット。
左の朝のミナレットの色、スキです!\(^o^)/
右の午後の写真は、太陽がちょうどミナレットの背後にあって、色合いが分かりにくいですね。
Wikipediaによると、こんな歴史があるようです。☟
1121年にカラハン朝の君主アルスラン・ハンによってブハラにカラーン・モスクが建立され、モスクの前のミナレットの建設が進められた。しかし、おそらくは地盤の柔らかさを計算に入れていなかったために塔は完成の直前に倒壊し、基部を強固にした上で塔の建設が再開され、1127年に現在のカラーン・ミナレットが完成する。1220年のモンゴル帝国のブハラ占領の際にカラーン・モスクが破壊されたと考えられているが、ミナレットはモンゴルの攻撃の後も姿を留める。塔に感動したチンギス・カンが、ブハラ市内を破壊する周囲の部下に塔の破壊を止めるように命令したという伝承が残っている。
19世紀後半までは罪人を生きたまま袋に入れて塔の上から投げ落とす刑が行われていたため、カラーン・ミナレットは「死の塔」の別名でも知られるようになった。
塔の高さは45.6m。
ミナレット表面の文様、とても繊細!(*^▽^*)
どのような構造なのか、気になられたら、上述のWikipedia「カラーン・ミナレット」をご参照ください。(*^▽^*)
☝は、早朝に撮影したものなので、右側には月が小さく写ってます。(*^^*)
続いて、カラーン・モスクに入りましょう!(*^-^*)
☝左は、☝右のカラーン・モスクの写真の手前に見える、門楼の中を中庭へ向かっているところです。
☝右は、カラーン・ミナレットに登った時に写したもの。
右上に、後から向かうアルク城が見えていますよ!(^^)/
現在のモスク本体は、シャイバーニー朝の1514年に再建されたものです。
☟は、カラーン・モスク中庭の、早朝と昼間の様子です。(*^^*)
☟、カラーン・ミナレットの窓から見下ろした、お向かいのミル・アラブ・マドラサ。
☟、カラーン・ミナレット門楼の上から撮影した、お向かいのミル・アラブ・マドラサ。
次から二つの建築物、何分10年前の記憶なので、曖昧・・・・・・。(^^;
ブハラの雰囲気を味わっていただくため、写真だけ貼っていきます。<(_ _)>
☟、マゴキ・アッタリ・モスク
☟、アブドゥールアジス・ハーン・マドラサ
歴史的建築物ではありませんが、ブハラの昼食を!
建造物の歴史背景は忘れても、食べたモノの美味しさは、写真を見ると簡単に思い出せます。(笑)
手前のお皿、トマトの下にある茄子の炒め物(素揚げ?)が、特に美味しかったんです!!!\(^o^)/
☟、アルク城の前。
☝左はアルク城の入り口、右は側面。
右側の奥の方には、カラーン・ミナレットやモスクが見えています。
☟、アルク城内部の様子。
☟、左上は、アルク城の入り口。
☝左下は、城内の広場?
2008年当時は、この場所で、右側のような貸衣装を着て写真撮影ができました。
ツアーも12日目ともなると、参加者の皆さんも打ち解けていて、お一人参加のお二人が貸衣装にチャレンジ。
今なら、ブハラ観光局(?)がもっとインスタ映えするように、周囲の装飾にもこだわっていそう???(笑)
☟、アルク城の向かいにある、 バラハウズ・モスク。
アルク城の天井もカラフルでしたが、こちらも綺麗!☟
☟、チャシュマ・アイユブ
正面から撮ったものがありませんでした・・・・・・。<(_ _)>
☟、イスマーイール・サマニ廟
☟、チャハル・ミナール
☟、ナディール・ディヴァンベギ・マドラサ
サマルカンドのレギスタン広場のシェルドル・マドラサ と同じように、動物(鳳凰)が顔のついた太陽に向かって飛んでいます。
イスラム教は偶像崇拝禁止しているので、一般的にどこを見学しても人物も動物も壁面に登場しません。
綺麗な青色や、青を基調にしたブルーが主体。
とってもきれいなのですが、2週間も見続けると美しさに麻痺してしまい、感動が薄れ・・・・・・。
どこを見たのかさえ分からなくなり、混乱してきます。(^^;
そんな旅の終盤で辿り着いたサマルカンドやブハラ。
動物や太陽がアクセントになったマドラサを見学できて、私個人としては、とっても新鮮な印象!
いくらなんでもあり得ないことだと思いますが、もしここに描かれたのが人物像だったら・・・・・・、全然美しくなかったと思うのです。
鳳凰やライオン・太陽を図案に採用した人物に、感謝!!!
このナディール・ディヴァンベギ・マドラサで、民族舞踊を見学しながら夕食です!!
ここへは、ツアーの一環として午前中にも訪れていました。
☟の上側が午前中、下側が夜。
昼間は、石畳の上に敷く赤いカーペットが、クルクル丸めて片付けられていました。
午前中早めな時間だったこともあり、お土産物を見に来ているお客さんもいなくて、静か~。
でも夜になると、お客さんが入り、民族衣装を着た演奏者や踊り手さんが現れ、雰囲気は一変!☟
これら☟の料理を楽しみながら、民族舞踊を見て、中央アジア気分を満喫!
☝の右上の色んな豆の入ったスープ(リゾット)?
これがまた、美味しかったのデス!!!(^^)v
ウズベキスタンの女性、小顔でスタイル良くて、綺麗な人ばっかり!☟
私、特に☝右(左下、真ん中も!)の女性から目が離せませんでした!(笑)
昔懐かし、10年ちょっと前のブハラの様子でした。
観光地なので、年々商業化しているとは思いますが、建築物そのものは変わらない(修復されて綺麗になっている?)と思うので、どんな様子なのか、外観の参考になれば幸いです。
では、今回はこの辺で!\(^o^)/